「想定外」について

 松田裕之氏によれば、「日経のサイトに『想定外は言い訳』、東日本大震災で土木学会などが緊急声明というのが載っています。『安全に対して想定外はない』。会見で、土木学会の阪田憲次会長は、こう強調した。『今回の震災は未曽有であり、想定外であると言われる。我々が想定外という言葉を使うとき、専門家としての言い訳や弁解であってはならない』。このことについてのご意見は?」ということです。
http://www.jiban.or.jp/index.php?option=com_content&view=article&id=1057:52&catid=36:2008-09-14-21-08-08

 そこで、「想定が言い訳になるかどうか」について考えてみました。

「想定外は言い訳にはならない」というのは、いくつかの意味合いがあると思います。今回の件については、「想定外」は「当事者である人達の想定」の外、ということで、当事者以外の人達の新しい科学知見に基づいた「想定」の外ではなかったということが一つあると思います。そういう意味で は、順応管理の手順を無視したと言えると思います。こういう場合は言い訳できないでしょう。

 もっと一般的には、想定外のことが起きたときに社会が壊滅するようなリスクでは、それを避けるのが予防原則ということになると思います。これは、エコリスク通信3号(http://gcoe.eis.ynu.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2010/12/EcoRisk110210.pdf)に紹介した「ダモクレス型」のリスク(低頻度、高災害)と、それに対する対応です。

 では原発の場合、予防原則に従うべきなのか(厳密な意味では、不実施)、順応管理で行くべきなのか(調整しながら実施)は、実は、社会的要因で決まるもの だと思います。つまり、一般的に言えることではなく、個々の事情によります。つまり、「文脈依存」です。

 実は、「文脈重視」は極めて東洋的です。ニスベット『木を見る西洋人、森を見る西洋人』によれば、西洋人は文脈を無視する傾向があります。(このことはまた後ほど。)

 アメリカのように、極めて広い国では、断層の上を避けても十分な土地があり、避難もでき、さらに最終処分場の建設も可能でしょう。なにしろ、原爆実験を繰り返しやることが可能な土地(ネバダ州の砂漠)があったわけですか
ら。(それでも候補地のネバダ州では建設に反対しているそうです が)。 しかも、それなりの民主主義の実績(健全な野党とマスコミ)もあって、かつ裁判が日常化しており、企業の独走は難しい。また、電力会社の 規模が小さいので、リスクはあまり取りたくない。そういうところでは、原発を運営していくことは不可能ではないと思います(多分)。それでも、全体で100基程度です。

 しかし、日本ではまったく事情が違います。「この地震の多い狭い土地に54基も原発をなぜ。」と海外から言われるような、極めてバランスを欠い た状態になってしまいました。その原因は文脈無視にあったわけで、リスクマネジメントに失敗しても当然と言えます。(アジア的な「後知恵」ではありますが。) 「想定外は理由にならない」、と非難されても仕方ないと思わざるを得ません。

 隕石による津波はどうするのか、ということについてですが、原因に対処する方法と、結果に対処する方法があると思います。原因については、隕石を迎撃したり軌道を逸らしたりする、というような案が出ています。結果については、壊れたときに近づけないようなものではなくて、再利用できるよ うなもので社会インフラを作っておく、ということでしょうか。そこまでやれば、想定外でも非難はされないと思います。

 結局、「安全に関しては想定外はない」は、見方によっては、かなり的を得ているのではないでしょうか。ただし、言った方がどこまで考えていたか は不明ですが。おそらく、直感的には、以上のようなことを感じたということなのではないかと想像します。